磨きあげられた床。広々としたガラス張りの全面を背景とした、だが今は入り込む陽射しを遮るために半分ほど下ろされたカーテンを後ろに従えるかのような、重厚な革張りの椅子。その前に広がる机の上には、雑然と積み上げられた書類。未成年の起こした卑猥な事件を一面で大々的に報じるスポーツ誌。厳かな装飾の施された分厚い外国語書籍。
本人は、いったいどこまでに目を通していることやら。
蔑みのような思いが脳裏をかすめる。そこへ控えめな扉の音。
ビッと背筋を伸ばす。だが、足音を耳にするや、ピクリと眉を動かしてしまった。
「お目当ての人間ではなくて、申し訳ありませんね」
そう言ってニッコリと笑いかける女性の表情は、むしろ楽しそうだ。
「でも、そうあからさまに落胆されると、私としましては少々寂しい気も致しますわね」
「あっ いや」
慌てて弁明を口にしようとする浜島の言葉を制し、女性は姿勢正しく彼の正面で立ち止まった。
スポーツカーのような真っ赤なスーツ。
昨今アジア人の中には、その体型をかなり婉麗なシルエットに整えた存在も多い。だが、これほどまでに似合う東洋女性は、やはり珍しいだろう。日本人離れしたスタイルは、自身でも自覚しているのだろうか?
浜島は思い直す。
自覚しているのだろう。しているはずだ。
この女性はバカではない。謙虚になることはあっても、必要以上に己を卑下する事はない。魅せるべきところを心得、必要に応じて披露する。
故に、厄介だ。
「あら、ごめんなさい。そうお気になさらずに」
浜島の思考を遮る、凛と通った声。
「ですが、悪いのは浜島先生の方だと思いますわ。事前にお知らせもなく、突然この理事長室に押しかけて来られたのはそちらですもの。理事長は、それほど暇ではありませんのよ」
ご存知でしょう? と言いた気な視線を添えて笑うのは、学校法人唐渓学園の理事長第一秘書、似内。
「それは存じております」
唐渓学園が運営する高校の優秀な教頭として無駄な動きを一切排除し、浜島はただ口だけで応じる。
「理事長がご多忙なのは重々承知」
「なら」
「どうしても、確認しておきたくて」
「確認?」
「えぇ」
今度は浜島が、似内へ意味ありげな視線を向ける番。
「寮のお話が、どうなったのかと」
"寮"という言葉が浜島の口から出た途端、似内は大きなため息と共に、右手を腰へ当てた。
「また、そのお話ですの?」
「もうかれこれ二年になります。そろそろ具体的に着手致したく」
「それは無理だと、先日も申し上げたでしょう?」
「理事長に直接お話させて頂きたい」
「ならば、事前にお知らせください」
「したはずですっ」
浜島の語気が、思わず強くなる。
「お会いしたいと、夏休みに入る前からあなたにご連絡しているはずです」
「ならば、答えもご存知でしょう?」
女性は飽く間で冷静だ。
年齢は浜島の方が圧倒的に上だろう。倍とまでは言わずとも、十歳は裕に離れているはずだ。だが、立場ではどちらが不利というワケでもない。
「教育関係者との集まりで、今週末までは東京です」
「では来週に」
「週明けは、唐渓中学の方で保護者の方々とお会いになるご予定です」
「一週間も中学の方へ出向くわけではありますまい」
「その後には仙台です」
手帳や端末など見ずともスラスラと出てくる理事長の予定。
「仙台?」
「理事長の、ごく個人的なご用事ですわ」
詳しい内容を口にせず、曖昧に笑ってみせる似内。だが、訝しげに瞳を細める相手の視線に、うんざりと軽いため息を漏らす。少し重心を右足に傾け、右腕を軽くあげて頭を振った。
「次の臨時会で提出される予定のセンター法の改正案について、国会議員の方々とお話になる為です」
センター法? 独立行政法人大学入試センター法の事か。ならば臨時会とは、臨時国会の事だな。
ごく個人的な用事―――
なるほど、理事長ほどの人物ならば、国会議員との間に個人的な付き合いがあってもおかしくはない。
「これでご納得いただけます?」
似内の言葉には、苛立ちよりもむしろ憐れみが含まれる。
たしかに、たかが教頭の浜島が知る必要など微塵もない内容だ。首を突っ込みすぎたと言わざるを得ない。
そこまで食い下がる浜島の言動に、似内が呆れるのも無理はない。
だが浜島は、それでも諦める事ができない。
「八月中にでも、お会いできたはずだ」
「教育現状視察の為に、北欧を周られていました。それもお知らせしたはずです」
浜島は、思わずグッと唇を噛む。
怒りすら滲み出てきそうその視線に、似内は改めてゆっくりと口を開いた。
「なにも、浜島先生の提案を無視しているワケではありません。理事長はちゃんと理解してくださっています。それは五月にお話致しました」
それは浜島もわかっている。
五月にこの理事長室で向かい合った時、彼はしっかりと耳を傾けてくれた。
唐渓高校を、全寮制にしたい。
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